幻燈のまち

人生につまづいても、歩ける

この先

老いは私に近づいてくる。それは怖くないが、それに乗じてやってくる心の衰退が気になる。自分は閉じこもってしまうのだろうか。全てが「まあいいや」となり、億劫になるかもしれない。それが怖い。自分にできることが少なくなり、そのうち、なにも出来なくなる。登山はできているだろうか。もしくは違う場所にいるのか。

その覚悟がない。時間的には、かなり先だが、必ずやってくることが怖い。

今不安を感じることは馬鹿らしい。しかし怖い。

 

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迷い

今日の山登りは失敗したと思った。

道には迷うし、新雪に足をとられ計画通りに進まず、下山はロープウェイ、視界不良で景色は全く無かった。

帰り道で、地図で現在地を見失ったことやスノーシューの重要性、事前に判っていた情報を活かせないのが悔しく思った。

ヘトヘトになって自宅に着いた。

山登りが好きなはずなのに、嫌な気持ちになっていた。好きな事でも嫌になれるんだなと頭で考えた。

失敗したからだろうか。それとも明日には、いい思い出になっているだろうか。

でも今は嫌になったとしても、来週になったらまた山登りしてるんだろうなと思う。そう思う。

 

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どんな気持ち

どういう気持になるか、という興味の持ち方が、自分の関心から遠ざかっている。

あのときは大切だと思いながら、始終頭のなかで、その言葉を繰り返していた。でも普通に暮らしていると、これも大事、あれも大切、すごい発見だ、という気づきが私には多くやってくる。

たくさんのことに向き合うと、先に見つけたことが隅に隠れて、多くの大切なことを失ってきたのかとわびしくなる。

ともかく、昨日山を歩いていると、「どういう気持になるか」ということは浮かんでこなかった。そのときは「人生は好きか嫌いかどうか」を思っていた。そして今は「どうしたら興味を失わないか」と考えている。

やっぱり、冬の山はきれいだった。それは今週一番嬉しかったこと。一人で歩くと思考運動になるんだなと、ただ心のなかで思った。

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どんな気持ちになるか

例えば、あの山の頂上に立ったらどんな気持ちになるだろうか。こう思うことで私は次に進めるような気がする。

どう感じるか想像する、嬉しくなるか、なにも感じないか、全く違う感じになるかもしれない。失敗になるか成功になるかというわけでなく、自分がどんな気持ちになるという全く違う概念で、これまでとは違う方向に進めるような気がしている。

これまで避けてきた人生のステージや出来事、通過儀礼。自分に関係ないと思いながら、そこから外れることで普通の人生が送れないようになり、この先の後悔になっていく。それを実行したからといってどうなるわけではない。次の悩みや苦労に気づくだけなんだけど。

でも自分が感じたことのない気持ちが、まだあると思うと人生って奥が深いと思う。

 

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あの枝に触ったらどうなるか

 

気持ちの整理

なぜか、ブログを書くことから遠ざかっていた。

ただ書くことが面倒になったのか、ほかのことが忙しかったのか、わからない。でもあの看板を見つけて山に登ることの気持ちがすっきりとしたから、という自分なりの答えがあった。

 

そしてなぜまた書くことにしたのか。

文章を書き始めるタイミングが人にはあると思う。「いつでも書ける」が「今しか書けない」に変わるタイミングが。それが今の私に来た。

きっかけは新しい考え方を見つけたからだと思う。漫画の主人公が木に登ろうとする。「大きい木だな。上まで登ったら、どんな気持ちになるだろう」と考えて木登りに挑戦する。

あそこに行けば、どんな気持ちになるだろうか。この言葉が、どうして、こんなに自分の頭に残り続けているのか。

頭から離れず、先週登山した時に、登った事のない岩のてっぺんに上がった。それこそ上まで行けばどんな気持ちになるかな、と凄く興味があった。答えは言葉にできない。ワクワク、スッキリとも言えるし、やっぱりという落ち着いた気持ちもあった。

この、「これをしたらどんな気持ちになるか?」という意味を追いかけたくて、再びブログを書いた。

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自分の気持ち

登山口の看板で、とてもいい文と出会いました。

「登山者とは、山に登ることによって心が充足される人のことである」。なぜこれに惹きつけられたのか。

このブログを始めるずっと前、山を下山しているときに、登山と散歩の違いを考えていました。私はどちらも歩くということに変わらず、いま山を歩いているが、散歩ともいえるのではないか。結局登山とは歩くことだ、と思いました。

しかし、あの看板と出会い、こう考えました。。

山にいて「楽しい」と思えれば、それは登山といえるのではないか。逆に楽しくなれけば登山とはいえない、ただの運動、トレーニングかもしれない。

登山とはなにか、ではなく山を歩いて触れて感じて、自分が楽しいと思えれば、それが登山。そうか、私は山を歩くことが楽しい。だから続けているんだなと納得しました。

なぜ登山なんてするの、と聞かれても、これからは自信を持って言えます。楽しいからと。

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偶然の出会い

 

紛らわす

運動することで、心拍数を上げて、呼吸を荒くする。脳は身体を動かすことと、酸素を巡らすことだけに集中する。

そうやって私はいろんな問題から避けているのかもしれない。故郷、仕事、私生活、考えは止まらない。

でも、そうやってもがいているだけで、十分生きている、それでもいいと、雨に濡れて歩きながら思いました。

 

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